久しぶりに、厭な夢を見た。――否、「俺は」厭だと感じていないから、また見てしまうのかもしれない。その割には寝起きの機嫌が芳しくなく、頬を這った寝汗を拭うのすら億劫になる。
中学生の頃の夢だ。実際人生上で経験したことを何度も上映させられるような夢を見るのは、いつもこれだけ。そのほかに見る夢は大抵、家の近所で遊んでいたら宇宙人と戦うはめになったり、銃を持った大人に追いかけ回され挙句の果てに殺されたりなんていった、あまり現実味のない夢ばかりだったように思う。(まあ、正味な話、俺の今の生活ほど現実味のないものもないだろうけど。)
ふとあの一瞬がまた頭に蘇る。(あ、)いつもの男鹿の部屋で、いっぱいの西日を浴びて、(やだ、)きらきら光る男鹿が、(やめて)近付いてきて。
真っ暗になった視界と、真っ白になった思考。その間隙に挟まれて目の前がチカチカした。彼になんと告げたか覚えていないが、とりあえず無我夢中で男鹿の部屋を飛び出したんだったと思う。その日はいやに夜空が綺麗だった。それだけは強く覚えている。今にも縺れそうな足取りで泣きじゃくりながら帰ったんだ。
(――なんで、今更……よりによって、こんな日に。)
携帯を開くとディスプレイに浮き出る日付。夏休みの最終日。――男鹿の、誕生日。こんな日にこんな夢を見るなんて、ついてない。せめてこの日くらい楽しく過ごせたらいいと思っていたのに、神様は残酷だ。
俺はあの頃、男鹿が好きだった。もう少し正確に言うならば、あの頃から男鹿が好きだった。だからなんの準備もなく急にキスされた瞬間、俺の頭の中は白と黒でチカチカさせてそれ以上思考を止めることを指令した。回路をショートさせておかないと、取り返しがつかないことになる。咄嗟にそう思ったのだと思う。俺の頭は意外に優秀だったらしい。長いキスが終わった後の男鹿の顔には、同級生に悪戯を仕掛けた時のような笑顔が少し見え隠れしていた。(なんだ……ただの遊びなんだ、こんなの。だって男鹿が、俺のことを好きでキスなんて、)そうだ、男鹿が本気で俺にキスなんてするわけがない。分かっていたのに、心のどこかで淡い期待をしていたのかもしれない。だからあんなに涙が止まらなかったのかもしれない。
適当を並べて飛び出した翌日、瞼を真っ赤に腫らして登校した俺に、男鹿はいつも通りだった。下駄箱で肩を小突かれて振り返ると、「お前今日なんで先行ったんだよ。母ちゃんがよ、遂に古市くんにも見捨てられたのってうるさくて仕方なかったんだからな」と笑う。その顔があまりにいつも通りで、俺は一瞬、昨日の出来事は全て夢なんだと思った。軽い悪夢のようなもので片付けられる気がした。だけど真正面から見た男鹿の顔を見ると、全ての熱が一気に戻ってくる。腕を掴まれた感触も、頬をかすめる吐息の熱も、全部。それでも俺は必死にいつも通りを演じた。ここで俺がうろたえたら、きっと男鹿は俺を気持ち悪く思うだろう。男鹿にとってはあれは遊びだったんだ。だから俺も、あれを遊びで流すしかない。それでいい。変に関係が拗れるのを、一番恐れたから。
暫く何日も過ごしていると、彼の熱を除いて、全てを今まで通り送ることができた。たまには忘れることもできるようになった。あれから2年経って、最近では思い出すことの方が少なくなるようになっていた。
だから、このタイミングでこの夢を見るのは、正直かなり堪えた。大きい溜息を吐いても、胸の奥に引っかかったなにかが完全にとれた気がしない。息苦しい。

ピンポーン。不意に響いたチャイムに身が強張るのが分かった。携帯には一通のメッセージ通知。急いで中身を開けると「今から行くけど」とだけ、男鹿から。けどって、なんだよ。心の中で突っ込みを入れたのとほぼ同時に開いた自室のドア。夏休みの最終日とだけあって9時過ぎまで惰眠を貪っていた俺にとっては、10時になろうとしているこんな時間でも寝起き宛らなので、早朝のように感じられた。
「なんだよ、こんな朝早く」
頭の中で彼にかける言葉を探す前にこんな言葉が飛び出たのも、そのせいである。
「お前がこんな時間まで寝てるのが悪いんだよ、バカ古市のバカ」
「寝起きの人間にバカって言うなよ。二回も」
――何の用だよ。言い掛けて、やめた。そもそもこいつは用があってうちに来たことの方が少ないだろうと思うからだ。意味もなく押しかけて、意味もなく騒いで、帰っていく。俺だってそうだ。
不意に夢の内容を思い出して、息が詰まる。忘れたままでよかったのに。夢を見るのは明日でもよかったのに。こんな日に、俺の前に男鹿がいる。
黙って俯く俺をよそに、男鹿は本棚の前でなにか考え込んでいた。
「……なに、してんの?」
唇が僅かに震えたのを、男鹿は気付いていないだろう。
「あー?こないだごはんくん何巻まで読んだか覚えてなくてよ」
「……あっそ。好きなだけ読んで帰れ。俺、ちょっと外出るわ」
適当に手に取った服を持って部屋を出ようとする。この部屋にこれ以上いるのは辛かった。息苦しかった。彼を部屋に置いて少しどこかへ出かけることなどしょっちゅうだったし、何か言われても、ジュース買ってくるとでも言えばいいだろう。そう思った。
ドアを閉めようとしたところで、その腕を掴まれた。思わず声が漏れる。何度も忘れることのできなかった手のぬくもり。あの頃より大きくなったな、なんて、そんな余裕どこにもないくせに。
「……なっ、なんだよ。離せよ」
「どこ行くんだよ」
「どこってそこのコンビニにだよ、ほら、ジュースでも買いに」
「さっきお前んちの冷蔵庫にいっぱいあったぞ」
「(勝手に漁ってんじゃねえよバカ男鹿)いや、じゃあほら他になんか甘いもんとか」
「Tシャツ二枚着てか?」
「えっ?」
上下揃って手にしていたつもりだった。手の中をよく覗けば、Tシャツが二枚。
「お前Tシャツ着てTシャツ穿くのか?変態なのは知ってたけどそこまでとは」
「うっせーよ。……つか、もう手ェ離せ」
がっしり掴まれた手首が熱い。この熱が伝わって欲しくない。切に願った。(つーかこいつ、いつまで手握ってるつもりだよ。男が男の手ずっと握ってるって、おかしいだろ。)手の大きさとか、骨ばってる感じとか、筋肉の付き方とか、俺とはちがってなんだか惨めになってくる(って、え、ちょっと、力、強くなって、)。

気付けば腕を引かれたまま男鹿の胸に吸い寄せられていて、言葉を失う。口が動かない。全身が一気に熱くなる。抗おうにも、こいつの力は半端じゃない。とてもじゃないけど、俺がちょっとやそっと暴れたぐらいではびくともしないだろう。本気でやっても、勝てる気はしなかった。そんなことよりも、この現状が不思議で仕方がない。こいつが何をやっているのか、俺にはさっぱり意味が分からない。抱き寄せられているだけ。俺が。男鹿に。耳の天辺まで真っ赤になりそうだ。もしかしたらもう既に真っ赤かもしれない。本当に火が出ているのかも、と疑うくらいに、熱い。早く離して欲しい。
「……やめ、ろよっ」
必死に絞り出した声は、こいつに聞こえているか聞こえていないかさえ疑うほどに小さな声だった。目に涙がじわりじわり溜まっていく。こいつは俺より背が少しばかり高いから、見えていないだろうけど。
「……お、おがっ。あつい、」
あついのはクーラーもついていないこの部屋か、はたまた自分の体か。もう何も分からない。風邪をひいたときのように頭が朦朧とする。もっと完全に拒絶しなくてはいけない。分かってる。なのに、体が、動かない。
「……ちょっ、離し」
「だめ」
そう言って男鹿は少し力を強めた。暑い熱いを通り越して、痛い。無理やりにでも引っぺがしてやろうと思ったが、やはりびくともしない。
突然、視界が黒で塗り潰される。俺の顔にべったりと張り付く男鹿の影。思い出す悪夢。血の気が引いていくのが分かって、制止させようとしたところで口を塞がれる。必死に漏れる嘆願も、こいつにはなんの意味も齎さないらしい。中学の時ですら長かったのだが(ほんとに、こいつ一体どんだけ溜まってたんだというくらい)、今はもっと凄まじく感じる。まるで3日も4日もご飯を与えられていなかった人間がようやくありついた食料とでもいうような、貪るとでもいうような。息ができない。涙と、口から溢れる唾液とで、溺れてしまいそうになる。(――……いくらなんでもこれは、遊びが過ぎるぞ、バカ。)
不意に力が緩まったのを見計らって、なにがなんだかわからないがとにかく離れなければ、と思い、体を思いきり離すと、男鹿は少しびっくりした表情をしていた。(どーだバカ男鹿、びっくりしたろ)その後すぐに寂しそうな表情もしていたが。俺は別にびっくりさせてやろうと思ったわけではない。それに、俺の方がよっぽどびっくりした。なんだ、さっきのは。
「おっ……お前、急に、なにして」
「なにって、キスだろ」
「っ!…………そ、そんな、簡単に」
隠せない。言葉の端々が弱く掠れたり震えたりしているのを、もう、こいつを前に隠せなくなっている。気持ち悪がられるかもしれない。それでも、もう隠しきれないことを悟ってしまった。
別にお前に興味なんてないけどな、とか、男なんだからいくら遊びでもあんまそういうことやんなよな、とか、そのような言葉は幾らでも絞り出せる。しかし、この真っ赤な顔を、震える唇を、溢れる涙を、どう説明しよう。俺にはそれらを弁明出来るほどの一打は思いつかなかった。
「……おが、俺、」
――だから全て言ってしまおうと思った。さすがに鈍感な男鹿でももう気付いてるとは思ったが、中学の頃のようにうやむやにしてはいけない気がした。あの頃はそれが最善策だと本気で思っていたんだ。だけど、今は違う。いつまでもずるずると自分に付き合わせてはいけない。ここで完全に離れなければならない。そう思った。だから。
「……ごめん」
「……、え?」
俺がまず口に出そうと思った一言は、どういうわけか、目の前、男鹿から発せられた。
「悪い。俺、またお前を泣かせた」
「え?いや……」
「前にもこんなことしたよな。お前はもう、忘れてるかもしれないけど」
ていうか忘れてくれる方がいいかもな、お前にとっては。うん。などと呟く男鹿を、ぽかんとして眺めていた。
確かに忘れたかった。一刻も早く。いっそ記憶喪失にさえなりたいと思ったこともあったが、男鹿との幼い日々の思い出まで手放すのは嫌で思いとどまった。でもそれは、男鹿をこれ以上好きになってはいけないと思う心からだった。男鹿をこれ以上好きになる自信はあった。でも嫌われるのが怖かった。だから俺は、あの日の甘い夢を悪夢扱いすることにしたんだ。
「俺、ずっとお前が大事だった。こんな奴の傍にずっといてくれたの、古市が初めてだったから」
「は……?え?」
だから男鹿の言った言葉が何一つ信じられなくて、何一つ現実味がなくて。
「古市が俺のことどう思っても構わないな、ってあの日思った。でも、俺が触れた古市は泣いた。ショックだったんだぞ、何気に。それが普通の反応だって分かるまでにちょっと時間かかったのは、お前がいつでもずっと俺の傍にいてくれてたからなんだよな。勝手に勘違いして、お前を傷つけて、悪かった。だから今のは、俺がお前を諦めるための最後のキスだ。」
ずらずらと並べられた、信じられるはずもない言葉達を、俺は飲みこめないでいた。咀嚼すらうまくできない。頭の中で言葉を整理する時間なんてなくて、気付けば手が先に飛び出していた。
「!」
一瞬、男鹿の顔が固まったのが見えた。再び重なった唇は俺からの意思であり、意志である。今度は男鹿に強引に振り解かれる。(やっぱ力強いな、こいつ。)
「古市……お前さっきの俺の話聞いてたのか?」
「聞いてたよ。だからしたんだろーが、バカ」
「……?よく分かんねえ」
「だーかーら」
わしゃわしゃ髪を掻いて、にかりと笑う。その時、きっとほんの一瞬、男鹿の頬も綻んだ。今日初めていつも通り笑えた気がして、胸につっかかっていた何かが綺麗に外れていく。
「俺もお前が好きだったんだよ。あの頃からずっとな」
「な……っ、ほんとか?」
「ほんとだ。嘘つく意味ねーだろ」
瞳にうっすらと涙を溜めて、一瞬で嬉しそうな顔をした男鹿が可愛くて、ちょっとびっくりした。嬉しさがこみあげてきたのか、意味の分からない(いや、多分意味はないんだろう)雄叫びをあげて俺を抱きしめてきた。痛みは感じなかった。俺からも抱きしめると、あの頃と変わらない匂いがして、男鹿の胸に顔をうずめる。
「……古市、もっかいキスしていい?」
「……ん」
今度こそ甘い夢を見よう。今度は、男鹿と一緒に。
ハッピーバースデー。そう呟いて、俺はそっと目を閉じた。





Sweet Dreams!
(二人で一緒に 夢を見よう?)


(110831)
長年の夢だった男鹿誕、やっと祝えました。おめでとうっ!
最初はノリノリで書いてたんですが、書き進めるうちに
思い通りに動かなくなってきて。笑
ヒルダさん乱入とか色々試したんですが、最終的になんとか無理やり終わらせました。笑

改めてお誕生日おめでとう男鹿!ずっとずっと古市を大事にね!


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